ヨルシカ考察【エイミー編】
そんなわけで今回から、1stフルアルバム「だから僕は音楽を辞めた」に収録されている各楽曲の考察をしていこうと思う。
- 3/21 藍二乗
- 4/10 無題(インスト)
- 4/24 詩書きとコーヒー
- 5/6 無題(インスト)
- 5/15 五月は花緑青の窓辺から
- 5/31 六月は雨上がりの街を書く
- 6/15 踊ろうぜ
- 7/1 夜紛い
- 7/12 パレード
- 7/13 無題(インスト)
- 8/7 八月、某、月明かり
- 8/25 だから僕は音楽を辞めた
- 8/31 無題(インスト)
- 8/31 エルマ
3/21 藍二乗
初回盤の「エルマに宛てた手紙」(以下、手紙という)には4/10の日付でこれから旅に出ることが記されている。このことから、藍二乗はエイミーがスウェーデンへと旅をする前に、エルマのことを想って書かれた歌だということがわかる。
藍二乗の藍はエイミーが使う万年筆のインクの色であると同時に、2乗すると「-1」になる虚数単位の「i」、つまり「君がいない」ということを表している。
楽曲を通してエルマに会いたいけれど、もう会うことはできないという、何かの決意のようなものを感じる。
そしてMVの最初、黒い画面の中に小さく「dear」の文字が見える。この楽曲自体がエルマへ向けた手紙ということなのだろう。
また、「止まったガス水道」という歌詞から光熱費を払うことができない状況、つまりエイミーは仕事を辞めていることが伺える。もちろんテレビも新聞もある筈がなく、世の中で起こっているニュースも知らずに、ただ曲作りに集中していたのだと思われる。
あの頃ずっと頭に描いた夢も大人になるほど時効になっていく
ただ、ただ雲を見上げても
視界は今日も流れるまま
遠く仰いだ夜に花泳ぐ
春と見紛うほどに
君をただ見失うように「藍二乗」ヨルシカ 作詞・作曲:n-buna
この一節からは、かつて思い描いていた夢を諦めている様子が伺えるが、
エルマを思い出している間だけはそんな過去を忘れ、心に春が来たような気持ちにさせてくれていたのだろう。
けれど自分で作った曲は売れず、人生が思うようにいかないことを知り、何を信じていけば良いのかわからなくなってしまった。
(顔中を覆っているインクのようなものは、涙を流すエイミーの心情を表しているのかもしれない。)
人生は妥協の連続なんだ
そんなこと疾うにわかってたんだ
エルマ、君なんだよ
君だけが僕の音楽なんだ「藍二乗」ヨルシカ 作詞・作曲:n-buna
これは売れる為には自分の作りたい曲ばかりを作っていては駄目なんだと、まるで自分に言い聞かせているようでもあり、エルマの作る音楽こそが自分の求めていたものだと述べていることから、エルマの持つ音楽の才能に気づいていたことを示していると思われる。
この詩はあと八十字
人生の価値は、終わり方だろうからただ、ただ君だけを描け
視界の藍も滲んだまま
遠く仰いだ空に花泳ぐ
この目覆う藍二乗「藍二乗」ヨルシカ 作詞・作曲:n-buna
「この詩はあと八十字」から、きっちり歌詞が80字で終わっている為、エイミーは物語の完結に対する強いこだわりを持っていた同時に、エイミー自身の寿命があと僅かであったということを示唆しているのかもしれない。
それと「視界の藍も滲んだまま」には、藍二乗のもう1つの意味が表されている。エイミーが空を見上げると涙で視界が滲み、空の藍色が涙で二重に見えるという情景だ。
MVの最後には、エイミーと思われる男性が空っぽの木箱に手紙を入れている様子が映されている。きっとこの歌がエルマに宛てて作られた最初の楽曲なのだろう。
4/10 無題(インスト)
- インク瓶
- 万年筆
- カメラ
- アコースティックギター
- 詩と楽譜を仕舞う木箱
- バイトで貯めた資金
と最低限の荷物を持って、人生最後の旅に出ることを手紙で宣言している。
4/24 詩書きとコーヒー
この曲の日付より少し前の4/20の手紙には、エイミーがルンドという街の一室に宿泊していることが記されている。そして、この街の聖堂で詩を考えるのが日課になっているという記述から、恐らくこの「詩書きとコーヒー」もそのルンド大聖堂で作られた曲である可能性が高い。
最低限の生活で小さな部屋の六畳で
君と暮らせれば良かった それだけ考えていた
幸せの色は準透明 なら見えない方が良かった
何も出来ないのに今日が終わる最低限の生活で小さな部屋の六畳で
天井を眺める毎日 何かを考えていた
幸せの価値は60000円 家賃が引かれて4000円
ぼやけた頭で想い出を漁る「詩書きとコーヒー」ヨルシカ 作詞・作曲:n-buna
幸せの色は準透明とは2ndミニアルバム「負け犬にアンコールはいらない」 の収録曲である「準透明少年」のことを指し、確かに存在するが、目に見えない幸せというものに対して、それが自分の元を去っていく(エルマにはもう会えないという不幸を感じる)くらいなら、そもそも幸せなんて知らないほうが良かったと表現しているのだろう。
そして幸せの価値という言葉も2ndミニアルバムの収録曲「ヒッチコック」の歌詞
幸せの文字が¥を含むのは何でなんでしょうか。
「ヒッチコック」ヨルシカ 作詞・作曲:n-buna
から由来しているものと思われる。つまりここで言う幸せとは、お金と関係する意味合いを持ち、幸せとお金は繋がりのあるものという認識がエイミーにもあって、
お金(給料)=幸せの価値と捉えていたのかもしれない。
従って、給料の60000円から家賃の56000円を引かれて、残りは4000円という生活の苦しさを歌詞で表しているものと考えられる。また、「少し大きくなった部屋」からは、家具などを引き払い、どうにか生活をやりくりしていた様子が伺える。
寿命を売るなら残り二年 それだけ残してあの街へ
余った寿命で思い出を漁る「詩書きとコーヒー」ヨルシカ 作詞・作曲:n-buna
「寿命を売る」なんていう表現は、一般的に使われることはない。これは例えば何かの作品を世に出すような、創作家などが使う活動期間のことを指すのではないだろうか。
そして本来はあと二年でその人生に幕を下ろすはずだったのかもしれないが、実際エイミーはこの旅を始めてから一年も経たずしてその生涯を終えることになる。
※なぜ期間が早まったのかは「5/6」で
わかんないよ わかんないよ わかんないよ わかんないよ
想い出になれ 君よ詩に成っていけ
わかんないよ わかんないよ わかんないよ わかんないよ
人は歩けるんだとか それが当たり前だとかわかんないさ
わかんないよ「詩書きとコーヒー」ヨルシカ 作詞・作曲:n-buna
「わかんないよ」の連呼
エイミーは人としての普通の生き方、当たり前の暮らしができなかったのではないだろうか。エイミーは人である前に芸術家であった。その部分が勝ってしまったが故に、エイミーは人としての普通に関してあまり興味を持たなかったのだろう。
しかし、エルマと出会ったことで普通の生き方(エルマとの生活)に憧れ、求めるようになったが、とあるきっかけ(恐らく寿命)でそれが叶わぬものと知り、世界に、己の人生に失望してしまったのではないかと思われる。
5/6 無題(インスト)
5/6の手紙には、アルヘルゴナ教会にて雨宿りをしている情景を楽曲にしたものと記されている。
これは推測だが、手紙に「ストックホルムに向かう道中でスリに遭った」と記されており、分けて保管していた現金とインクを盗られている。
このことから当初、エイミーは曲の制作活動を二年間行える程の資金とインクを持ち合わせていたが(詩書きとコーヒーより)、スリに遭ったことによってその活動期間を縮めざるを得なくなってしまったのかもしれない。
そして自分の人生の期限さえも自分で決めてしまう程の芸術至上主義だったということになる。(インクの量=寿命と決めていた。)
更に、松尾芭蕉が遺した
俳諧は三尺の童にさせよ
という言葉についても触れていて、慣れて技巧ばかりを凝らすようになってしまった自分の音楽は、既に賞味期限が切れており、今まで続けていたものは所詮、芸術の真似事に過ぎないのだと心境を明かしている。
5/15 五月は花緑青の窓辺から
この楽曲に登場する「花緑青」という言葉について、5/17の手紙にその意味が記されていた。(エイミーはこの時点で、リンショーピンという街に訪れているようだ。)
数日前に書いた詩について
「花緑青」とは毒性の人工染料で、エイミーが万年筆で使用していたインクのことだ。恐らく、ノーチラスで服用していたものも「花緑青」だと思われる。
そしてエイミーは「花緑青」にもう一つの意味を持たせていた。
さようなら
青々と息を呑んだ 例う涙は花緑青だ
黙ったらもう消えたんだよ 馬鹿みたいだよな思い出せ!
「五月は花緑青の窓辺から」ヨルシカ 作詞・作曲:n-buna
手紙によると、あの詩に書かれているのは全て涙のことであり、涙というのは毒に近いものだと表現している。
涙は自分の弱さを正当化するための麻酔であると共に、辛い現実から目を背ける「逃避」なのだという。
加えて、作品を笑われた時のことを自分の弱さ=毒だと述べており、このことから、エイミーは過去に自分の作品を馬鹿にされた経験があるようだ。従って、激しいロック調で演奏されているこの楽曲は、その時のエイミーの怒りを表しているのではないだろうか。
しかし、一つ気になる点がある。「空いた教室」、「指を指された僕」など歌詞の中に学生時代を連想させる言葉が入っていることだ。
あくまで自己解釈だが、これは学生時代に出会ったエルマとの思い出ではなく、エルマに音楽を教えていた夏の記憶ではないだろうか。
エイミーは音楽を教えるという立場から、エルマといたその場所を教室と例え、その時間をまるで学生時代のように歌詞で表現したものと思われる。
けれど、エルマに音楽を教えている内にその才能に気づいてしまい、心のどこかで嫉妬のような感情が少しずつ湧きあがる。そこに売れない自分の作品に対する怒りが重ね合わさり、涙さえも否定するという心情をこの歌詞で伝えようとしていたのかもしれない。
5/31 六月は雨上がりの街を書く
彼はイリノイ州シカゴのアパートで、誰に見せることもなく60年以上に渡り、たった一人で物語を描き続けたが、死の半年前、施設へ入れられた後になって、初めてその作品が他人の目に触れられることになった。
1万5145ページに及ぶ小説原稿と数百枚の挿絵。現在でも単一では世界一長い長編小説である。
心の形は長方形
この紙の中だけに宿る
書き連ねた詩の表面
その上澄みにだけ君がいるなんてくだらないよ
馬鹿馬鹿しいよ
理屈じゃないものが見たいんだよ
深い雨の匂い
きっと忘れるだけ損だから「六月は雨上がりの街を書く」ヨルシカ 作詞・作曲:n-buna
今の暮らしはi^2
君が引かれてる0の下
想い出の中でしか見えない
六月の雨上がりの中で「六月は雨上がりの街を書く」ヨルシカ 作詞・作曲:n-buna
6/15 踊ろうぜ
「踊ろうぜ」は、自ら決めた道でありながらも、エルマにもう会えないのならせめて、その時の感情や思い出を歌にして残したいというエイミーの願いが込められた楽曲だと思われる。
嗚呼、人間なんて辞めたいな
そうだろ、面白くも何にもないだろ
嗚呼、自慢のギターを見せびらかした
あの日の自分を潰してやりたいよ伝えたい全部はもう
夏も冬も明日の向こう側で灰になったから 淡く消え去ったから
疾うに失くしてたこの情動も何処かへ投げ捨てて
君がいいのなら ただ忘れたいのなら
もう躊躇うことなんてないよ
このまま夜明けまで踊ろうぜ「踊ろうぜ」ヨルシカ 作詞・作曲:n-buna
この歌詞では、それなしでは生きられない程に、自分の人生を変えてしまった音楽に対する恨みとその音楽を選んてしまった自分へのやるせない思いを表しているのだろう。
そしてそれら全てを、皮肉にも「踊ろうぜ」という曲名の歌で忘れ去ろうとしているように感じる。
嗚呼、音楽なんか辞めてやるのさ
思い出の君が一つも違わず描けたら
どうせもうやりたいこと一つ言えないからさ
浮かばないからさ君を知ったまま 日々が過ぎ去ったから
どうか追いつきたいこの情動をこのまま歌にしたい
今が苦しいならさ 言い訳はいいからさ
あぁもう、踊ろうぜほら「踊ろうぜ」ヨルシカ 作詞・作曲:n-buna
エイミーにとって、音楽の他にやりたいことなど無く、思い浮かばなかった。
だから、スウェーデンの旅を通じてエルマに宛てた手紙と詩(楽曲)を書き終えることができたなら、音楽を辞めることにするという決意をこの時点で抱いていたのかもしれない。
7/1 夜紛い
「夜紛い」の数日前に書かれた6/26の手紙には、ゴットランド島のヴィスビーという街の一室で、エイミーが筆を執っていることが記されていた。
ヴィスビーについて
ヴァイキング時代に繁栄していた貿易都市で、今も中世の匂いが色濃く残る遺跡の街。「輪壁」と呼ばれる、街の周囲をぐるりと囲む城壁は中世に作られたもので、年月が経っても変わらない姿を見ることが出来るそうだ。
恐らくここで言う「輪壁」は、エイミーの心を覆う障壁のことを指しているのではないだろうか。
それと、エイミー個人の話も綴られていた。
昨夏の初め頃、バイトを辞めたエイミーは、久し振りに駅前で路上ライブを行っていたようで、ふと目の前を見ると、一人の中年男性が立ち止まって歌を聴いていたらしい。
そして次の曲が終盤に差し掛かった時、その男性が感想を言った。
「詰まんない歌だな」
その言葉を聞いてエイミーは、ただどうでも良かったと記しているが、手紙の最後には
あの日見た夜紛いの夕暮れを、まだ忘れられないままでいるという怒りとも呼べない感情を書き表していた。
がらんどうの心が夕陽の街を歩いてく
銃身よりも重いと引き攣ったその嘘の分だけ人生ごとマシンガン、消し飛ばしてもっと
心臓すら攫って ねぇ、さよなら一言で「夜紛い」ヨルシカ 作詞・作曲:n-buna
マシンガンという単語には2ndミニアルバム「負け犬にアンコールはいらない」の収録曲「爆弾魔」に似た、心の中に宿ってしまった破壊衝動を表しているものと思われる。
人生ごとマシンガン 消し飛ばしてもっと
苦しいんだと笑って ねぇ、さよなら一言で
君が後生抱えて生きていくような思い出になりたい 見るだけで痛いような
ただ一つでいい 君に一つでいい
風穴を開けたい「夜紛い」ヨルシカ 作詞・作曲:n-buna
風穴を開けたいという歌詞は、一見すると物騒な言葉だが、
これはエルマにこのまま忘れられたくないという思いと、こんな自分を認めてほしいという存在欲求を比喩した言葉だと思われる。
つまりエイミーはエルマにとって、いつまでも忘れられないような特別な存在になりたかったのだろう。
7/12 パレード
乾かないように想い出を
失くさないようにこの歌を
忘れないで もうちょっとだけでいい
一人ぼっちのパレードを「パレード」ヨルシカ 作詞・作曲:n-buna
この歌詞からエイミーは、エルマとの思い出を色褪せることなく、鮮明に覚えていたいという強い願望を抱いていたと考えられる。そしてその記憶を忘れない為の方法を探していた。その答えがエイミーの取り柄でもある音楽の中、つまり歌詞に綴るという表現方法だったのであろう。
これは個人的な解釈だが、「ひとりぼっちのパレード」というどこか矛盾を感じる言葉には、エイミーが一人でエルマへの思いを書き連ねるパレード(文字の行列)という本来のパレードとは相反する儚い意味合いが込められているのではないだろうか。
ずっと前から思ってたけど
君の指先の中にはたぶん神様が住んでいる
今日、昨日よりずっと前から、ずっとその昔の昔から。
わかるんだ「パレード」ヨルシカ 作詞・作曲:n-buna
エルマの指先に注目して、まるで褒め称えているかのようなこの歌詞は、もしかしたらエルマが弾いていたピアノを指しているのかもしれない。
そしてそのピアノの音色に、自分にはない音楽の才能を見いだしていたのだと思われる。
7/13 無題(インスト)
この曲はアルメダール公園から北に向かった輪壁沿いの海岸線を臨む木陰のベンチで作られたようで、この時点でエイミーは、ゴットランド島の隣にあるフォーレ島に滞在していることが告げられている。
また、この手紙はエイミーが書いた「パレード」の詩の翌日に書かれたものであり、その後日談のような内容たった。
身体の奥 喉の真下
心があるとするなら君はそこなんだろうから「パレード」ヨルシカ 作詞・作曲:n-buna
「身体の奥 喉の真下」が指すもの。それは声(声帯)のことを指していて、目には見えないが、心臓を伝い、肺から気管を通り口から出る。その空気の振動にこそ、心が宿るのだという。
これも推測だが、もしかしたらエイミーはもう一度エルマの声を聞きたくなったのか、
或いは感情が込められた歌声のように、心を宿らせることができるのは、人から発せられる声だけなんだということを伝えたかったのかもしれない。
それと、神様についての話も書かれていた。
神様は作品の中に宿るわけであって、人間の中に宿っているわけではないと思うのは創作家の傲慢だという。
そこにはエイミーの持つ思想について書かれており、自らをオスカーワイルドに倣う芸術至上主義者だと述べていた。
※オスカー・ワイルド:19世紀末の詩人/劇作家
エイミーは『嘘の衰退』の一節である
人生が芸術を模倣する
という言葉を手紙に書いていた。
これには、その人の体験した人生や自然、社会といった周りの環境を模倣して芸術が作られるのではなく、むしろ芸術には人生を変えてしまう程の力を持っているという意味が込められている。
それから手紙の最後には、そろそろインクが尽きようとしている旨が書かれていた。
8/7 八月、某、月明かり
この詩が作られた翌日、8/8の手紙には、こう記されていた。
ヴィスビーは本当に良い街だけど、長居し過ぎてしまった。
お金もインクの残りも少なくなっている。
どうやらエイミーはこれからストックホルムへ戻るようで、そこは彼が幼少期に住んでいた街らしい。
バイトを辞めたことについて
正確に言うと、逃げ出したようだ。その日は綺麗な欠けた月が出ていたようで、自転車に乗って東伏見の駅前を無心になって漕いでいたという。
そしてその時にエイミーはもう、この夏で全てを終わらせる覚悟を決めていたようだ。
良いミュージシャンについて
ロバートジョンソン、ジミヘンドリクス、ブライアンジョーンズ、ジムモリソン
あの頃の良いミュージシャンは、皆27歳でこの世を去った。27クラブなんて言う有名なジンクスもあるくらいだ。
この言葉から、(決して共感できることではないが)エイミーは27歳で人生の幕を下ろすことに美徳のようなものを感じていたのだと思われる。
手紙の最後には、山月記の引用
「人生は何事をもなさぬにはあまりに長いが、何事かをなすにはあまりに短い。」
という詩と共に、一滴の涙の跡と思われるシミが付いていた。
心臓が煩かった 歩くたび息が詰まった
初めてバイトを逃げ出した
音楽も生活も、もうどうでもよかった
ただ気に食わないものばかりが増えた
八月某、月明かり、自転車で飛んで
東伏見の高架橋、小平、富士見通りと商店街
夜風が鼻を擽ぐった この胸の痛みは気のせいだ
わかってた わかった振りをした「八月、某、月明かり」ヨルシカ 作詞・作曲:n-buna
この楽曲は歌詞全体を通して、自暴自棄ともとれるエイミーの荒々しい感情が表現されている。
その原因と思われる言葉が、歌詞の中に散りばめられており、何らかの病気を示唆しているものと思われる。
- 「心臓が煩い」
- 「歩くたび息が詰まる」
- 「胸の痛み」
心臓が煩かった
笑うほど喉が渇いた
初めて心を売り出した
狭心もプライドも、もうどうでもよかった
気に食わない奴にも頭を下げた「八月、某、月明かり」ヨルシカ 作詞・作曲:n-buna
歌詞に出てくる「狭心」という言葉。このことから推測できるのは、恐らくエイミーは狭心症、或いは心臓の病気を患っていた可能性があるということだ。
病気の正体を知ってしまったエイミーは、その人生がもう長くはないことに気づき、このような死を意識した楽曲を作ったのではないかと考えられる。
最低だ 最低だ 別れなんて傲慢だ
君の全てに頷きたいんだ
そんなの欺瞞と同じだ、エルマ「八月、某、月明かり」ヨルシカ 作詞・作曲:n-buna
この時のエイミーにとって、唯一の心残りはエルマであり、エルマにある音楽の才能をどうにかして本人気づかせたかったのだろう。
しかし、エイミーがそれをしてしまえば、自分にはその才能がないことを認めてしまう。(自分の音楽を否定することになってしまう)
そんな嫉妬と葛藤するエイミーの思いが、この楽曲から感じられる。
8/25 だから僕は音楽を辞めた
ヨルシカ - だから僕は音楽を辞めた (Music Video)
あんたのせいだ
今までは歌詞の中で、二人称(エルマのこと)を「君」と呼んでいたが、この楽曲では「あんた」と呼んでいる。その違いと理由について考えてみた。
一、「あんた」はエイミーの人生に影響を与えた外的要因。
ニ、「あんた」はエルマを皮肉った言葉。
まず前者は、エイミーの人生や考え方を決めてしまった(決めざるを得なくなってしまった)外的要因をまとめて、「あんた」と呼んでいたのではないだろうかというものだ。
病気の発覚や自分の作った音楽が売れない現実、才能のあるエルマとの出会いなどの体験は、エイミーにとって人生観や考え方を狂わせてしまった大きな原因であったと思われ、それらのせいで「僕は変わってしまったんだ」という自己主張なのだと考えられる。
そして後者は、やはり「あんた」という二人称はエルマのことを指しており、エルマの存在が自分を変えてくれたのだということを伝えたかったのではないかというものだ。
エルマと出会う前のエイミーは、夢を諦め、売れることだけを考えながら曲を作っていた。しかし、エルマと出会い、彼女の価値観や作品に対する考え方に触れていく内に、売れることなんてどうでもいいことなんだと気付かされ、本来のエイミーの音楽を思い出させてくれたのだろう。そのことを、感謝の意味を込めて「エルマのおかげ」と伝えようとしたが、素直になれないエイミーは「あんたのせい」と皮肉めいて書いてしまったのだと考えられる。
考えたってわからないし
青春なんてつまらないし
辞めた筈のピアノ、机を弾く癖が抜けない
ねぇ、将来何してるだろうね
音楽はしてないといいね
困らないでよ
心の中に一つ線を引いても
どうしても消えなかった 今更なんだから
なぁ、もう思い出すな「だから僕は音楽を辞めた」ヨルシカ 作詞・作曲:n-buna
心の中に線を引いて(He/art:彼/芸術)音楽と距離を置いてみても、指で机を弾く癖が抜けないというこの歌詞からは、エイミーがかつて憧れていたピアニストの夢を未だに捨てきれないでいる様子が伺える。
このことから、やはりエイミーの人生には音楽しかなかったということがわかる。
幸せな顔した人が憎いのはどう割り切ったらいいんだ
満たされない頭の奥の化け物みたいな劣等感
間違ってないよ
なぁ、何だかんだあんたら人間だ
愛も救いも優しさも根拠がないなんて気味が悪いよ
ラブソングなんかが痛いのだって防衛本能だ
どうでもいいか あんたのせいだ「だから僕は音楽を辞めた」ヨルシカ 作詞・作曲:n-buna
それと同時に、音楽のことしか考えられない芸術至上主義のエイミーは、大切な筈だったエルマに対しても嫉妬を抱いてしまう己の醜さを「化物みたいな劣等感」と称していたのだと思われる。
僕だって信念があった
今じゃ塵みたいな想いだ
何度でも君を書いた
売れることこそがどうでもよかったんだ
本当だ 本当なんだ 昔はそうだった
だから僕は音楽を辞めた「だから僕は音楽を辞めた」ヨルシカ 作詞・作曲:n-buna
そんな音楽に対する葛藤と矛盾が、エイミー自身を狂わせ、行き着いた果てが音楽を辞めるという決断に繋がってしまったのではないだろうか。
8/31 無題(インスト)
これはストックホルム、ガムラスタンの古通りにて玉石敷きに落ちる雑踏を表現したものらしい。
そして手紙の初めには、もうインクが残り僅かになったことが書かれていた。(実際に文字が少し掠れている)
それとエルマに向けて、箱に入れた詩と曲は全て君のものであり、僕にはもう必要ないと述べ、作品のことばかり考える自分自身のことを「芸術狂いの醜い化物」と呼んでいた。
8/31 エルマ
箱の中には、8/31の日付が付けられた手紙がもう一枚入れられていた。
冒頭、インクが切れたようで、文字がかなり掠れている。
そこには、エイミーの人生観が綴られていた。
終わりのない小説は詰まらない。
それは人生にも言えることであり、エイミーにとってその物語は音楽でしか表せないそうだ。そしてこの箱に入れられた詩曲が、エイミーを象った人生そのものだという。
それから、この手紙を入れた箱はエイミーが送った訳ではないらしい。
どうやらエイミーは、そのうち親切な誰かが送ってくれることを祈って、エルマの住所を書いたメモ書きを箱に添えただけのようだ。
(ということは、にわかには信じがたいが、物語としては本当にそうなったことになるのだろう)
その人生は妥協の連続だったようで、エイミーはピアニストに憧れていただけではなく、小説家にもなりたがっていたらしい。
そんな一度音楽を辞めたエイミーが、こうしてまた夢を諦めきれずに詩を書き始めるようになったのはエルマの詩を読んだからだそうだ。
エイミーは、その時触れたエルマの詩に「月明かり」を見たようで、それは夜しか照らさない無謬の光を放っていたという。
そして手紙には、数滴の滲んだ涙と思われる跡が付いていた。
嘘つきなんて わかって 触れて
エルマ まだ まだ痛いよ
もうさよならだって歌って
暮れて夜が来るまで「エルマ」ヨルシカ 作詞・作曲:n-buna
君のことを思い出すと胸が痛くなるんだ
だからこの気持ちに別れを告げる為に
この歌を捧げる
朝日の差す木漏れ日 僕とエルマ
まだ まだ眠いかい
初夏の初め近づく五月の森「エルマ」ヨルシカ 作詞・作曲:n-buna
僕らはまだ
夢から覚めたばかり
(夏という季節が二人にとって大切な思い出であり、遠く離れた存在だとするならば、「初夏が近づく5月の森」はまだ二人で活動していた音楽に迷いを感じ始めていた時期だと思われる。恐らくその頃のエイミーはようやく夢から覚め、現実に向き合おうとしていたのかもしれない)
歩きだした顔には花の雫
ほら 涙みたいだ
このまま欠伸をしよう
なんならまた椅子にでも座ろう「エルマ」ヨルシカ 作詞・作曲:n-buna
雫が落ちる
(行く道の辛さに)疲れてしまったのなら
また休んでもいいんだよ
許せないことなんてないんだよ
君は優しくなんてなれるこのまま何処かの遠い国で
浅い夏の隙間に寝そべったまま
涙も言葉も出ないままで
ただ夜の深さも知らないままで「エルマ」ヨルシカ 作詞・作曲:n-buna
気にぜす君は君の人生を貫けばいい
いっそこのまま旅にでも出て
また二人だけの夢を見よう
そうすれば君の涙も辛いと言う言葉も
どこまでも続いていく切なく悲しい道も知ることはなかっただろう
嘘つきなんて わかって 触れて
エルマ まだ まだ痛いよ
もうさよならだって歌って
暮れて夜が来るまで「エルマ」ヨルシカ 作詞・作曲:n-buna
君と別れたのだって
僕の自尊心を守るためさ
だからこの歌を歌うんだ
辛いことも苦しいことも何も見えないならわからないし
塞いだ目閉じたままで逃げた
月明かりの道を歩く「エルマ」ヨルシカ 作詞・作曲:n-buna
塞ぎ込んだ心のまま僕は人生という道から抜け出した
今は君の足跡を探しているに過ぎない(エルマの音楽を模倣している)
狭い部屋も冷たい夜も
眠い昼も 寂しい朝も
さよならの言葉越しに君の顔を見てる「エルマ」ヨルシカ 作詞・作曲:n-buna
暮らしの中にいても
君のことを忘れられないままでいる
このまま何処かの遠い国で
浅い夏の隙間に寝そべったまま
涙も言葉も出ないままで
ただ空の青さだけ見たままで
ただ君と終わりも知らないままで「エルマ」ヨルシカ 作詞・作曲:n-buna
この想いを捨てて
頭を空っぽにして
今と違う日常を送りたい
君と出会うこともないままで
嘘つきなんて わかって 触れて
エルマ まだ まだ痛いよ
もうさよならだって歌って
暮れて夜が来るまで「エルマ」ヨルシカ 作詞・作曲:n-buna
だけど君のことを知って
僕は気づかされたんだ
だから君にさよならを伝えることにするよ この歌で
「だから僕は音楽を辞めた」の収録曲を聴いて、生前のエイミーが考えていたことや身の上のことを知ることが出来た。とりあえず言えることは、ヨルシカは素晴らしいということだ。(語彙力の欠如)エルマ編はまた気が向いたら投稿するつもりだが、ひとまず、これにて捜査は終了とし、今はその余韻に浸ろうと思う。
(ここまでご閲覧いただき、ありがとうございました。)